諏訪、信州に抜ける南北に走るルートと、それと交差する東西を結ぶ東海道、川を利用した物流や交易で人や物が行き交い栄えていた天竜川流域。戦国時代の舞台にもなり、近代以降は日本有数の水源、水力発電の基地として日本の発展に大きく貢献しました。
これも、三方ヶ原で敗れた家康が浜松城へ逃げ帰る際のエピソード。あまりにも腹が減った家康は、たまたま通りがかった曳馬のあたりの農家を突然訪れ、「何か食わせてくれ」と懇願したそうな。
そのとき、ちょうど食事の支度をしていた老夫婦。
「そんな立派なお侍さまに召し上がっていただけるようなものはございません」
と丁重に断ったものの「かまわぬ」と、家康はできたてのお粥(かゆ)を「うまい」「うまい」と何杯も食べて去っていったという。
その後、天下を取った家康は「あの時の礼じゃ」ということで、「これから『小粥(おがい)』と名乗れ」と、彼らに姓を与えたという逸話が残っている。
そのため、ここ曳馬では小粥姓の人が多く住んでいる。※全国でもここだけに集中している。
ちなみに小粥家の家紋は○に二つ引。(左図参照)これはお椀に箸を置いた形をモチーフにしている。この紋章は、武田軍の追っ手から逃れるために天井裏に匿ってくれた橋羽村(現天竜川町)の妙恩寺でも使われている。同じように「その時いただいたごはんのお礼」で家康から授かったものだそうだ。
1573年1月25日(元亀3年12月22日)、三方ヶ原の敗戦の日の夜、籠城を目論み一旦浜松城へ戻った家康は、一矢を報いべく大久保忠世、天野康景に命じて、犀ヶ崖に野営していた武田軍に夜襲をかけた。これが「犀ヶ崖の戦い」である。
ここは当時、幅50m、深さ40mの大きな谷間だったそうで、現在でも国道257号線にかかる布橋の上や、犀ヶ崖公園内に設置された展望台から見下ろすと、生い茂った木々の中に当時の様子がうかがえる。
大久保忠世たちは鉄砲隊を率いて背後から武田陣営に襲いかかり、不意打ちを食らった武田軍の多くが混乱の中、この谷底へ転落して絶命したとされる。
その際、大久保忠世たちは犀ヶ崖を覆うように布を渡し、それがまるで橋が架かっているかのように偽装したそうな。暗闇の中、混乱した武田軍は人馬ともそこにめがけて逃げ出したため、そのまま谷底へ落下したという逸話が残っている。現在、この犀ヶ崖古戦場周辺の地名が「布橋」なのは、その逸話が由来とされている。
なお、犀ヶ崖公園内には本多肥後守忠真の碑の他「ねずみ小僧次郎吉」のお墓がある。浜松北高交差点すぐそば。
1573年1月25日(元亀3年12月22日)、3万人の武田信玄軍に対して兵力1万人の不利な徳川家康軍が一戦を交えた、戦国史にその名を残す「三方ヶ原の戦い」の場である。
真冬の夕刻に始まった戦いの時間は約2時間と言われ、戦力的に圧倒的な武田軍の前に徳川軍は鳥居四郎左衛門、成瀬藤蔵、夏目吉信などの多くの大事な家臣を失うなど大敗を喫し、敗走を余儀なくされた。その際の、家康にとっては決して武勇伝にはならない逸話が、小豆餅、曳馬など三方ヶ原ー浜松城間のエリア周辺に多く残っている。
ちなみに、三方ヶ原の合戦の場所は、日本史上重要な戦いにも関わらず正確な場所がわかっていない。現在、古戦場の碑は国道257号線沿いにある「三方ヶ原墓園」の駐車場の入り口脇に建っているが、この碑にも「そのところは定かでない」と記されている。
真偽の定かでない家康の敗走にまつわる逸話が多くあるのに比べて、史実である戦いの場所が不定ということも、歴史の奥深さを物語る。
三方ヶ原の戦いで、武田信玄に敗れて浜松城へ敗走する徳川家康の、数ある逸話の中で最も有名な地名のひとつである。
三方ヶ原の戦いで敗れた家康は命からがら浜松城へと向かっていたが、その途中、腹が減ったので(なぜか家康敗走のエピソードにはこのパターンが多い)この地にあった茶屋で小豆餅を食べたという。
この話には続きがある。食べている途中で武田軍が追いかけてきたもんだから、あわてた家康は金も払わず馬に乗って逃げたそうな。(この続きは「銭取」参照)
実は、この小豆餅という町名が正式に採用されたのは1976年(昭和56年)と新しい。だが、昭和39年に廃線になった遠州鉄道奥山線に「小豆餅駅」があったことから、通称名として古くから親しまれてきたことがうかがえる。
なお、残念ながら上記の逸話は後世創作されたもので、実際は、「三方ヶ原の戦いで命を落とした多くの死者を弔うために餅を供えた」ことが由来との説が有力である。
ちなみに、町内には小豆餅を売っている和菓子店はなく、東区有玉北町の「御菓子司 あおい」で「浜松銘菓 小豆餅」が販売されている。
三方ヶ原で敗れた家康が浜松城へと逃げ戻る途中、「腹が減った」と茶屋で小豆餅を食べていた。そこへ武田軍が追ってきたもんだから大慌て!! 代金も払わず馬に飛び乗り一目散に逃げた……、というのが小豆餅での話。
ところが怒ったのは、その茶屋の老婆。「金を払え!」と家康を追い、とうとう追いついて代金を支払わせたのがここ「銭取」、という逸話は長く浜松市民に親しまれている。
さて、ここ銭取から小豆餅までは約2km。老婆が馬に乗った家康を2kmも追いかけられるのか? 追いつけるか? などとツッ込み所は満載である。
もともとは、この辺りには山賊が多く出現し、よく銭を取られたことからこの名がついたという。今でこそ姫街道は昼夜を問わず交通量も多く、周辺には建物も密集しているが、当時は民家もほとんど存在しない閑散としたうら寂しい地域だったらしい。
ちなみに、遠州鉄道奥山線の駅名に「銭取」の名が残っていたが、昭和39年の廃線に伴い消滅してしまった。現在は浜松市中心部から北へ向かう国道257号線(姫街道)沿いの遠鉄バスの停留所にその名が残る。
築山殿は家康の正室。かつて家康が人質にされていた今川氏の家臣、関口親永と今川義元の妹の間に生まれた。
永禄5年(1562年)、夫家康が織田信長と同盟関係を結んだことで織田と敵対していた今川氏の怒りを買い、両親は自害したとされている。筑山殿20歳
築山殿と家康の長男信康は、織田信長の長女徳姫と結婚するが、徳姫が
・築山殿は信長、家康と敵対していた武田家と内通。
・築山殿は自身のありもしないことを夫信康に告げた。
・築山殿は唐人医師と密通している。
というような内容の12箇条を父信長に送ったことで、信長は家康に築山殿と夫信康の処刑を命じたとされているが、家康・信康不仲説など諸説がある。
天正7年(1579年)8月29日、佐鳴湖岸小薮村で家康の家臣、野中重政らによって殺害される。築山殿38歳。
その時、血のついた太刀を洗ったのがこの池で、そのために延宝6年(1678年)に百年忌が行われるまで池が涸れた、もしくは池が赤く染まったという逸話が残る。
現在、史跡碑は浜松医療センターバス停横の医療センター駐車場内の一画に設けられているが、実際の池はそこから約10m南の位置にあったという。
浜松市天竜区水窪(みさくぼ)にある、南北朝時代に標高420mの久頭郷山、通称『三角山』の頂に建てられた山城である。「城」でありながら、一般的な石垣や城壁で囲まれた天守閣を備えたものではなく、周囲に柵を廻らせた曲輪や土壁と簡素な木造の門や櫓、自然の地形を生かし二重に廻らされた堀切や土塁など、南北朝時代の城らしく急峻な地形を生かした「砦」に近い作りになっているのが最大の特徴だ。
築城は1414年(応永21年)。後醍醐天皇の孫「伊良(ゆきよし)親王」を守るためにこの地域の豪族であった奥山金吾正定則氏が築いたとされる。
1569年(永祿12年)、信州遠山郷の遠山土佐守によって落城。以降、武田配下に落ちたとされ、その後、遠江最北端の拠点として武田信玄が大改修を行ったものの、1575年(天正3年)、長篠・設楽原の戦で武田勝頼が信長・家康連合軍に敗れ、廃城となった。
現在の城は平成6年~11年にかけて発掘、整備、復元されたものだが、一部、管理施設や木橋などは本来のものではない。
見学のための最短のコースは高根城公園駐車場から急坂を5分ほど登ったあと、階段を含むハイキングコースを10~20分ほど進む「登城の小道」。余力があれば1~2時間、周辺の散策も楽しめる。ハイヒールや革靴などは不向きなのでご注意を。
長野県との県境。浜松市天竜区水窪から長野県飯田市に抜ける秋葉街道、通称「塩の道」にかかる峠である。命名は武田信玄。1573年(元亀3年)、上洛のため信濃國を南下した際、これより少し手前で2万5千の部隊を分隊し、本隊は青崩峠、残りがこの峠を通ったことから「兵が越えた峠」と名付けられたという。
現在では舗装はされているものの道幅は狭く交通量は少ない。かつて数万の兵が、冬の11月25日にこの山奥深い峠を越えた喧騒からはほど遠い静寂な空気が流れている。
その空気を打ち破る日が年に1度訪れる。この峠では1987年から毎年10月の第4日曜日に浜松市(遠州軍)と長野県飯田市(信州軍)の間で「峠の国盗り綱引き合戦」という「国境の領土を賭けた」綱引きイベントが、兵越峠隣の「国盗り公園」で開かれる。
綱引きで勝ったほうが1m、相手側の領土に国境を移動できるというもので、ここ2年は信州軍が勝利しているため、実際の国境よりも2m静岡寄りに国境が移動している。ただし、これには「行政の境に非ず」と但し書きが添えられている。(写真参照)
ちなみに、2012年まで、合計26回開催されているが、遠州軍が勝ち越して国境が信州側に立てられたことは一度もない。
『幕末から明治初期にかけて、南信から北遠の地方では、大豆の栽培が盛んでありました。山へ分け入って焼畑作りをしたり、畑の囲り、あぜ道、さらには石垣にと、あらゆるところを使って豆を作っていたのです。収穫された豆は、舟に積まれて二俣の町の問屋へと運ばれたのです。山の中の厳しい生活の中で細々とした収入ながら、山合いの人々の豆にかける願いがこめられて、あばれ天龍の名のある流れを下ったのです。
その船の何そうかがこの難所にさしかかると、腕利きの船頭によってあやつられても、日によって微妙に変化する流れを避けることができず、荒々しい波の中へ転ぷくしてしまいました。船いっぱいに積まれた豆は、一気に天龍にのみこまれてしまったのです。こうしたことから「豆こぼし」といわれるようになりました。
なお、豆こぼしの水面を見ると、渦をまき、わき渦が大きな盛りあがりをみせています。そのようすが、豆を盛りきって落ちかかるのと同じだとして「豆こぼし」と言う人もいます。(「さくま昔ばなし」より/中段左の白黒写真参照)』
現在、天竜川はすっかり穏やかな流れに変わり、その名は近くに作られた「豆こぼしトンネル」に残るだけになりました。
金原明善とは、私財を投げ打って天竜川の治水事業に貢献した、天竜川の歴史を語る上で欠かすことのできない人物である。(詳細は「巡る」の金原明善記念館」を参照)鹿島橋の西100mほどのところに、天竜川を背にした胸像が、金原家の家憲や浜名用水の経緯とともに建てられている。
「浜名平野に広がる農業用排水の骨格をなす、県営浜名用排水幹線改良事業の地元負担金に関する事務を共同処理する目的で、昭和13年3月に、浜松市ほか16ヶ町村(当初浜松市ほか8ヶ村浜名用排水組合)が共同して、金原用排水組合を設立した。設立当初、関係市町村の財政難により、地元負担金の支出に困難を生じ、事業遂行に支障を来たすこととなった。しかし、県知事の斡旋で明治37年金原明善翁が設立した金原疏水財団(金原治山治水財団と変更)から、明善翁の素志にかなう事業として、その地元負担金全額の寄附を受けて事業が施行された。工事は太平洋戦争中及び戦後の大変苦しい時代に、明善翁の尊い精神を体して、幾多の先人の善意と努力によって進められ、昭和21年6月、初めて天竜川の清流によって、浜名平野の水田をすみずみまで潤すことができ、農業の基盤である水源の安定的確保がが実現した。農民はその快挙に深く感謝して、明善翁の遺徳を景仰したのである。その後、天竜川の河状等の変化で、国営天竜川下流農業水利事業により、取水口は船明ダムに遷されているが、浜名平野における近代農業の起点とも言うべきこの浜名用水取水口跡地に、明善翁に対する謝恩記念事業として胸像を建立し、明善翁の遺徳を顕彰すると共に、その遺志と遺風を後世に継承するものである。」
天竜川左岸、磐田市側の堤防を走る県道343号線から100mほど東に江戸時代後期の天保期(1830〜1843)に建てられた、当時の特徴的な建築様式を今に伝える、国の有形文化財に指定された家屋がある。
初代当主大箸(おおはし)藤次郎(文化5年:1808年生まれ)は一代で天竜川流域ではその名を知らぬものがない在郷商人にのしあがった人物で、40歳の頃には壱貫地村の庄屋も務め、浜松藩や地元の旗本、近隣諸村にも融資した記録が大福帳に残っている。
天竜川にこれほど近いにもかかわらず、この区域は度重なる「暴れ天竜」の氾濫を免れて現在に至っており、敷地内には天竜川の治水事業で有名な金原明善が宿泊した茶室もあった。
明善は安間村から壱貫地村までは船で川を上り、ここから上流へは篭で移動したという。また、先代の当主篤平は明善の孫義子と結婚するなど、明善の治水事業への協力をきっかけに、天竜川をはさんで金原家と大箸家は親密な関係を築いていった。
現在の当主は先代の甥に当たる康晴氏。本田技研の技術畑を歩んだ彼は多くの人がここを訪れ、歴史的な数々の所蔵品に触れて『古人の知恵に学び未来を考え自らの花を咲かせて欲しい』という思いを込め、ここを『花咲乃庄』と名付け公開している。
※「巡る」「食す」もご覧ください。
諸武将が合戦を繰り広げていた戦国時代はもちろん、幕府の統治維持のため、大きな「川」は防波堤の役目を果たしていた。そのため天竜川にも、明治時代になるまで橋が架けられず、その代わりに舟や筏、人夫などによる「渡し」が唯一の交通手段となっていた。
その東海道・天竜川の横断手段が「池田の渡し」だった。渡し場は3カ所あり、天竜川の水量によって「通常は下流にある下の乗船場、中程度になって流れが速くなると中流にある中の乗船場…」と使い分けられていた。料金は武士、御三家の菩提寺と朱印状を有する社寺、渡船運営費の一部を拠出している遠江国の人たちは無料。それ以外が旅人、馬、荷物の仕分け方で区分されていた。ちなみに正徳元年(1711年)では旅人一人が12文、馬1匹が36文という料金設定だった。が、これは一つの瀬を渡る料金で、当時の天竜川は中洲をはさんで瀬が二つあったため、実際はこの倍の賃料がかかった。
家康が一言坂の戦いで撤退する際、池田の里人たちが兵船を葦原に隠し武田の追っ手からかくまったことで、天正元年(1573年)、家康はその見返りに独占運営権や運営費の一部を遠江国から徴収できる権利を与えた。また「利用者は舟が思うように運行されなくても船頭などを殴ったり危害を加えてはならない」というお墨付きも与えたので、船頭たちはかなり威張っていたという。
元亀3年(1572年)10月10日、武田信玄率いる3万の兵は兵越峠(又は青崩峠)を南下して徳川領・遠江をめざしていた。徳川側の北遠江の武将・天野景貫は武田軍を前に即座に降伏。居城の犬居城(春野)を明け渡したばかりか侵攻の先導役を務めた。
信玄は武田四天王の一人、重臣・馬場信春に5000人の兵を預け只来城を落とし、徳川の北遠江の重要拠点である二俣城に向かわせる。一方、信玄本隊は犬居城から周智郡森町方面に南下。徳川方の天方城、一宮城、飯田城、格和城、向笠城などを1日で落とすなど、その速度を上げていた。
片や浜松城の徳川家康。盟友・織田信長からの援軍もなく、三河を侵攻している武田四天王の一人、山県昌景への対応もあって、南下する武田軍の前に8000人程度の兵しか動員できない中、これ以上の信玄の侵攻を防ぐべく10月14日に出陣する。それに先立ち家臣・本多(平八郎)忠勝らを偵察に出すが武田軍の先発隊と遭遇、一戦を交えることになる。(木原畷・三箇野の戦い)その後、倍以上の武田軍の前に家康は早々に敗走するがすぐに追いつかれ、再び合戦となったのが一言坂。この時、しんがりで大槍を振り回し枯れ草に火をかけその煙幕の中、無事に徳川軍を退却させたといわれているのが本多忠勝である。敵将をして「家康に過ぎたるものがふたつある。唐の頭(兜)と本多平八」と言わしめたという。
明治時代初頭には最大40人近い船持ち(船主・廻船問屋)が60艘近くを保有し、「小江戸」と呼ばれて賑わったという掛塚湊。現在の掛塚町にあって、旧廻船問屋の建物だけが当時の面影を残している。
旧廻船問屋の建物に共通して使われているのが「伊豆石」である。これは材木を満載して江戸に運んだ帰りに、船を安定させるために伊豆石を積んできた名残であるとされている。静岡県西遠地方で初めての銀行組織を作り、現静岡銀行の基礎を築いた平野又十郎の生家「山文(中宿川口屋)」の石塀や「角屋」「遠州屋」「中屋」「川口屋」の石壁などに伊豆石を見つけることができるが、火災予防という目的も兼ねて多く使われるようになったのは、明治16年の大火以降という。
掛塚町の中心にある貴船神社は鎮守の他、航海安全を祈願しており、その氏子総代は代々廻船問屋だった。毎年行われている「掛塚まつり」で町内を曳き回される、千石船を模した当時の繁栄を象徴している豪華絢爛な「屋台」も江戸時代に作られたもので、祭り後に分解されたものを毎年組み立てている。(修復が必要なパーツはその都度補修される。)2012年に国の登録有形文化財に登録された掛塚町内にある旧掛塚郵便局(明治6年開局。廻船問屋「長谷川家」が四代に渡って郵便局長を勤めた)は町のシンボルとして町民に愛されている。
暴れる(氾濫する)たびにその形を変えてきた天竜川。室町時代には河口部分に大きな中洲を作り、川の流れは複数に分かれていた。その大きな中洲=川中島に作られたのが「掛塚」の港である。河口ということもあって遠浅で、大きな船の発着ができないという弱点もあったが、「遠州第一の名港」と誉れは高かった。
当時、掛塚湊は縦横2つの重要な航路の中心として栄えた。縦が信州から天竜川を下ってくるルート、横が大坂や江戸を結ぶ廻船ルートである。豊臣秀吉は屋根葺き用の「木瓦」を、江戸初期には家康が江戸に幕府を開くにあたり、城郭はもちろん、武家屋敷、幕府の諸施設、寺院・神社、住宅など、江戸の街造りのために大量の木材を天竜川上流に求めた。そして、信州から筏に組まれて運ばれてきた天竜の木材は一旦掛塚湊に集められ、江戸や大坂に運ばれてその需要に応えたのである。
江戸中期になると、木材資源が枯渇してきたため、代わりに伊勢・志摩からの御用米(年貢米)や信州の干し柿、和紙、水引、遠州のお茶、椎茸などの運搬の中継基地として栄えた。明治18年、浅い水深が大型輸送に対応できなかったため人工の港湾を建設したが、明治22年に東海道線が開通。物資輸送が海上から陸上に変わっていき、掛塚湊はその使命を終える。現在はその面影もなく、「掛塚湊の碑」が竜洋海洋公園内に立っている。